不思議のるつぼ

ほんとうのことも たいせつなことも ふしぎのなかでかがやくまほう

2022/01/25/Tue

今日のチャネリングメッセージは

 

はるけき 我が友よ

どうか その場所が パラダイスである

ということを 知っておいてほしい

 

光の友たちよ 今 じゅうぶんに

満たされ そこから 愛となり

放たれよ

 

いつくしみ合い たたえ合い  喜びを分かち合い

すでに充分みたされているものを 分け合い

ともに生きながらにして 助けあうこと

その中心に 愛をもってなすこと

今 うごきは 去りぬん

さらば 与えられる喜びと その魔法に

身をもって 応えよ

 

あなたは 自らの 声に 耳をかたむけ

黄金の魂の声をきくだろう

 

内なる えいちに 触れなさい

身体を 整え 心を 休め

安息のうちに 在りなさい

 

友よ これは 祈りだ

あなた方の中に 光を見ている

 

どうか その灯を 高々と

掲げ 世を照らしたもう

 

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とのことでした。

ヨーゼフ、みたいな感じの存在でした。

ちょっと、硬派っぽい感じの雰囲気がありました。

でもどっしりもしていて、大きい感じの愛。

 

誰かの姿を見て「いいな〜」と感じることってあるじゃないですか。

あれって、何を見ているんだろうな〜と思ってちょっと考えてみました。

 

私たちは物体としての身体があり、物質として衣類などの装飾物を身につけていますよね。

そういった造形的な美の好みや、装飾物に美的センスを感じて、というのも確かにひとつあると思います。

だけど、それだけじゃないよね、とも思うんです。

 

その人が纏っている空気感、ていうのはまあなんとなく通じる人も多いんじゃないかな、って思うんですが

その人の内面(精神や身体の状態)の表れをエネルギーで見ているってことなんだと思うんですよね。

 

あ〜この人、なんか具合悪そう、とかって顔色だけじゃなく感じたりしますよね。

あ〜この人、なんかよくわかんないけど、好きだなあ、とかもありますよね。

 

そういう「なんとなく」感じていることって、目に見えて知覚していることだけじゃなかったりするじゃないですか。

これは「超感覚知覚」っていうんですけど、この辺のことは私の師匠である本郷綜海さんの本『癒す人の教科書』を読んでもらったら詳しく書いてあるんですけど

スピ的に解説すれば、エネルギーフィールドとか、オーラとか、チャクラとかっていう事象でもって説明できたりするわけですけれども。

目で見たりして意識を向けて、人の「感じ」をつかむこととかって、まあ、ふつうに、やってるよね〜って話です。

 

それで、私が突然な感じでこうして今年になってバキバキにスピってる感じの日誌を書いているのは

実は、みんな、ふつうにスピって暮らしてるってことをじわじわと伝えたいっていうのも

ひとつ、あるんです。

 

スピリチュアルな能力っているのは特権的なものでもなんでもないです。

まあ多少、得意不得意とかはあるにしても

全く何ひとつスピリチュアルな能力を使わないで生きている人っていうのは、たぶん存在しないです。

人間って、スピリチュアルな生きものなので。

 

スピリチュアルを、超普通のこととして認識し直して、コツを掴んで生きやすくなる人が増えると良いな

って思ってるんです。

 

だから。

この人のこと見てると、なんか心地いいんだよな〜っていうのは

たぶん、その人の状態が、いい感じに整っていることを感じているんだと思うんですよね。

もしくは、自分の好みというか、その人の状態を心地よく感じる状態に、自分がなっている、という場合もあると思うし。

そういうふうになりたいな〜って感じていたりとかね。

 

スピリチュアルな能力は誰でも持っているんですけど

私の場合は、ちょっと幼少期からなんていうか、勘の鋭い子でして

いうなれば超感覚知覚がけっこう発達していたというか、見たり感じたりっていうところから

情報がスッと入ってくるというか、自分が読み取っているような感覚があって。

それゆえに、ちょっと、ものすごく、生きづらいなという感じもずっと持ってきていましたけど

そういう自分が当たり前にやっていることをちゃんと言語化する能力が少しずつ研鑽を重ねることで育ってきて

やっと、ちょっと人の役になるようなこともできるようになってきたかな、というところに辿り着きました。

 

そうやって、自分のことを受け入れることができるようになって、本当に嬉しく思っています。

だってね、どんなに能力があっても、それが生かされなければ、その能力って呪いみたいになってしまうんですよね。

ようは、能力があるが故に苦しく辛いだけ、みたいな感じ。

 

ちゃんと生かすことができさえすれば、素晴らしいのに。

 

そういうことって、いっぱいあるなあ、って思うんですよね。

 

ちゃんと、その人がその人の持って生まれた特性や能力を活かしきれるような在り方や社会の構造になっていったら

きっと絶対、今よりは暮らしやすく楽しくて平和な社会になるんじゃないかなって思うんです。

それで、そういう社会の実現にはどんなことが必要かなって考えると

やっぱりスピリチュアルなことだけでは、絶対にどうにもならないことってたくさんあるから。

 

たとえば、沖縄や沖縄の人や沖縄の海が大好きで、辺野古の工事を止めたい綺麗な海を守りたい、綺麗な海を大切にしている人たちの心を守りたい

っていう状況で、やっぱり内地からただ「祈る」だけじゃあ、土砂を積んだダンプは止められないわけですよ。

 

もちろん、人の「祈る」力のことを否定しているわけではないです。

もちろん力にはなるけど、やっぱりそれだけではこの物体や物質の世界ではどうにもならないことあるわけですよね。

土砂で埋めたりされたら祈りじゃどうにもなんないわけ。

 

だから、私は、現地に行って、辺野古基地反対って頑張ってる人達の中に入っていく、ってことをしたりもするんです。

超スピってる私だけど、そうやって自分の体を使って、自分の願いのために行動するっていうこともものすごく力になることだと知っているから。

これも、超強力な祈りの一つのかたちです。意思を持って行動する、ということも。

 

本当にみんなが幸せに暮らす社会の実現には、私はどちらも必要不可欠で不可分だと考えています。

 

祈りと行動、そして行動は祈りであり、祈りも行動のひとつである。

 

現状の社会をもっと誰にとっても暮らしやすい社会にしたいって考えのもとで行動するから自然と左派的になるわけだけど

別に特定の団体に属しているわけでもなく、どこかの党派の支持者でもないんです。

ただ単に、一人の人としてだけ、感じて考えて動いているだけであって

そうすることが、自分にとって自分の望みを叶えるための行動のひとつだっていう話なだけなんですけどね。

 

そういうわけで、あ〜この人なんかいいわ〜って感じながら見てうっとりするのとか楽しいですよね。

アスリートの人たちとかの試合を見ながら、それぞれの人の身体やそこから出てるエネルギーを眺めたり

BTSが歌って踊ったり仲良くしたりしているのを観るのも、超大好きです。

またBTSに関してはじっくりこれからまた書きますけど、彼らを眺めることを好んでいる事象は、私の場合、顔面や身体の容姿などに対する好みや趣味趣向の話じゃなくって、内面の表れとして、そこに美を見出して愛でることが自分にとってとてもエネルギー的栄養になる感じがするからなんですよね。

まあ、この話は長くなるのでまた今度。

 

とにかく、容姿として眺めていることって、容姿だけじゃないよねって話でした。

私たちは、なにをもってして「美」としているんでしょうか。

興味深いですね。

 

ひとまず、おやすみなさーい!